1 次に、偶像に供えられた物を食べることはどうか、という質問に答えましょう。 この件については、だれもが、自分の判断は正しいと思っています。 しかし、自分の万全の知識がどんなに重要に思えても、教会を建て上げるためにほんとうに必要なのは、愛です。
2 もし、自分はどんな問題にも答えられる、と思い上がっている人がいたなら、それは、自らの無知をさらけ出しているにすぎません。
3 しかし、ほんとうに神様を愛している人は、神様に知られているのです。
4 では、先ほどの問題はどうなるでしょう。 偶像に供えた肉を食べてもよいのでしょうか。 私たちはみな、偶像など実際には神ではなく、神様はただお一人だけで、ほかにはいないことを知っています。
5 ある人は、偉大な神々は天にも地にも数多いと考えています。
6 しかし私たちは、父なる神ただお一人しかいないことを知っているのです。 この神様が、万物を創造し、人間をご自分のものとして造られたのです。 また私たちは、ただ一人の主、イエス・キリストがおられることを知っています。 この方が、すべてのものを造り、私たちにいのちを与えてくださるのです。
7 けれども、クリスチャンの中には、このことがわかっていない人もいます。 そういう人は、これまでずっと、偶像を生きているもののように考えてきたので、ただの偶像に供えられたにすぎない物を、あたかも、実在する神々に供えたかのように思ってしまうのです。そのため、それを食べる時にひどく気になり、傷つきやすい良心が痛むのです。
8 ただ、このことを覚えておいてください。 神様は、私たちがそれを食べるか食べないかなど、気にかけておられません。 食べなくても損にはならないし、食べても得をするわけではありません。
9 ただし、いくら自由だといっても、あなたがたがそれを食べたために、あなたがたよりも良心の弱いクリスチャンが罪を犯すようなことにならないよう、くれぐれも注意しなさい。
10 あなたが、偶像への供え物を食べても別に害にはならないことを知っていて、神殿の食堂で食事をしたとしましょう。 それを、食べてはいけないと思っている人が見たら、どうでしょうか。 その人は、いつもそれは悪いことだと思っているのに、つい気持ちがゆるんで、自分もそれを食べてしまうでしょう。
11 すると、あなたは、それを食べても差しつかえないことを知っていたために、傷つきやすい良心を持った兄弟に、信仰上の大きな損害を与えた責任を負うことになります。 キリスト様は、その兄弟のためにも死んでくださったのです。
12 ある行為は悪いと信じている兄弟が、あなたがたのふるまいに刺激されて、その行為をしてしまうなら、あなたがたはその兄弟に罪を犯し、同時に、キリスト様に対しても罪を犯すことになるのです。
13 ですから、もし偶像に供えた肉を食べることで、兄弟に罪を犯させるなら、私は一生、それを食べません。 私の兄弟に罪を犯させたくないからです。