エステル記 9 JLB

1-2 いよいよ運命の日、二月二十八日がきました。 王の二つの勅令が発効する日です。 この日、ユダヤ人を血祭りにあげようと意気込んでいた敵の立場は、全く逆転してしまいました。 ユダヤ人は自衛のために、全国各地の町々に結集しました。 ところが、あえて手出しする者は一人もありません。 全国民がユダヤ人を恐れていたからです。 

3 諸州の指導者層である総督、役人、従臣たちはみな、モルデカイを恐れていたので、進んでユダヤ人に手を貸してくれました。 

4 今やモルデカイは、宮中で飛ぶ鳥を落とす勢いであり、その名声は津々浦々に鳴り響き、しかもますます勢力を伸ばしていたのです。

5  ユダヤ人は、決起の日がくるといっせいに行動を起こし、片っぱしから敵をなぎ倒しました。 

6 シュシャンでは五百人が殺されました。 

7-10 ハメダタの子である宿敵ハマンの息子十人が殺されたのは、言うまでもありません。 その名は次のとおりです。パルシャヌダタ、ダルフォン、アスパタポラタ、アダルヤ、アリダタパルマシュタ、アリサイアリダイ、それにワユザタしかし人々は、ハマンの資産には手を出しませんでした。

11  夜も遅く、シュシャンでの死者の数が報告されると、 

12 王は王妃エステルを呼び寄せて言いました。 「シュシャンだけでも五百人は、ユダヤ人に殺されたという。 もちろんハマンの息子十人もな。ここでさえこんな具合なら、ほかの州ではどうなっていることか!どうだ、まだ何かしてほしいことがあるか。 あれば、かなえてつかわそう。 遠慮なく申すがよいぞ。」

13  「もしおよろしければ、もう一日、シュシャンにいるユダヤ人に、きょうと同じようにさせてくださいませ。 それから、ハマンの十人の息子を、絞首台につるしてやりとうございます。」

14  王が承知したので、シュシャンでは勅令がおり、ハマンの息子らはさらし者にされることになりました。 

15 シュシャンに住むユダヤ人は翌日も集まり、さらに三百人を殺しましたが、この時も財産には指一本ふれませんでした。

16  一方、全州のユダヤ人も、シュシャンと同様、自衛のために一丸となって立ち上がり、敵対する七万五千人を剣にかけましたが、やはり相手方の持ち物には手を出しませんでした。 

17 このことは二月二十八日、全州いっせいに行なわれたのです。 翌日は特別な休日として祝宴を設け、大喜びで勝利を祝いました。 

18 ただ、シュシャンにいるユダヤ人だけは二日目も敵を殺し、その明くる日を休日として、祝い合ったのでした。 

19 こんなことから、今も、イスラエルの地方の小さな村々では、毎年、この二日目を祝日とし、贈り物を交換し合うのです。

20  さてモルデカイは、これらの出来事すべてを記録し、遠い近いには関係なく、全州のユダヤ人に手紙を送りました。 

21 その中で彼は、二月の末の二日間を年ごとの祝日と定め、 

22 この歴史的な日を記念して、断食と贈り物の交換をしようと提唱しました。 この日こそ、ユダヤ人が敵の手から救われ、悲しみを喜びに、嘆きを幸福の絶頂へと変えられた日だからです。

23  ユダヤ人はモルデカイの提案どおり、毎年この習慣を守りました。

24-25 ハマンがユダヤ人殺しの日を、さいころを投げて決めたこと、さらに、事の次第が明らかになった時、ハマンの陰謀はついえ去り、王命によって、自ら作った絞首台の露と消えたこと、息子たちもまた、さらし者となったことの記念日としたのです。 

26 こんなことから、この祝日は「プリム」と呼ばれるようになりました。 さいころを投げることを、ペルシヤ語で「プル」と言ったからです。 

27 国中のユダヤ人は帰化した者も含め、毎年この二日間を、子々孫々に至るまで、祝日として守り抜こうと決心しました。 

28 こうしてこの行事は、津々浦々にまで行き渡り、いついつまでもこの出来事が、ユダヤ人の脳裏にあざやかに刻まれることとなったのです。

29-31 一方、王妃エステルは、プリムの祭りの制定についてモルデカイを支持するとの手紙を送りました。 そのほかにも、百二十七州のユダヤ人を励ます善意に満ちた手紙を、モルデカイと王妃エステルの連名で出しました。 ユダヤ人は進んで、この、国をあげての断食と祈りの日を記念することに決めました。 

32 こうしてエステルの命令で、祭りの日は正式に法令で定められたのです。

チャプター

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10